死への恐怖

初めて死というものに恐怖を抱いたのは、確か小学4年のときでした。
きっかけはドラマでした。 夜、母が寝ながら見ていたのですが、横で寝ていた私も見るとはなしに見ていました。 確か家族をテーマにしたドラマだったと思います。 子供心にも重くて暗い内容で、家族の一員である娘が、誰にも話さずに家のトイレで出産し、生まれた子を血だらけのままゴミ捨て場に捨てる、というショッキングなシーンを今でも覚えています。 そのドラマの後急に、「死んだらいったい自分はどうなるの?」という不安・恐怖に襲われました。 考えれば考えるほど恐怖は増すばかりで、夜も眠れず、一人でトイレにも行けなくなってしまいました。 とにかくそんなことを考えないように努めたので、だんだん平静に過ごせられるようになってはいきましたが。
でも死への恐怖がなくなったわけではありません。 今でも「死んだら。。」と考えると、頭の中が真っ暗になって足がすくむような感じにとらわれます。 死んだら、体がなくなってしまうのはわかります。 では、今こうして考えたり感じたりしている私の魂?心?これはいったいどうなるんでしょう。 私の歩んできた大切な人生の記憶は、私自身というものは、完全になくなってしまうんでしょうか。 私はもう私というものを感じることができなくなってしまうんでしょうか。
東日本大震災でたくさんの方が亡くなったということもあって、死別の悲しみに関する本をいくつか読んでいます。 そこに書かれているのはもちろん残された側の人たちの悲しみについてなのですが、その中で、臨終の時に「ありがとう」という言葉を残して亡くなられた方のことが書かれていました。 こう言える人は実はあまりいないそうです。 最後のときに今まで与えられたいのちに感謝し、「ありがとう」という言葉にすることができたらそれは最高の人生だ、と。 人生の最後に「ありがとう」といえる生き方。 死んだ後のことについて恐怖を抱き、うずくまってしまうことよりも、いかにして最期を迎えるか、またいかにしてその道のりを歩むのか、そのことについて考える方が大事なんだということに気がつきました。 最後の言葉も言えずに突然亡くなってしまうかもしれません。 それでも「あの人は幸せだったはずだ」と思われるくらい、毎日を生ききりたいです。 長くても短くても、今生きている人生を全うできたら、それでもう十分なような気がします。
死後の世界は誰もわかりません。 欧米では特にキリスト教信仰をバックグラウンドにして、「死後の生命は永遠である」という死のときを支える希望があるそうです。 キリスト教に限らず、世界中の芸術家や哲学者も、肉体がなくなっても魂は生き続けるという考えを持っていたりします。 「また会いましょう」 その希望を持って別れることができるのなら、それはなんて素敵なことでしょう。 
死や悲嘆についての教育は重要だとも書かれています。 確かに教育がきちんとなされれば、私のように死に対して過剰な恐怖心を抱くこともないでしょう。 死を前向きにとらえ、看取る側にしても死んでいく側にしても心の準備が整えられるでしょう。 私もこれから多くの死に出会うと思います。 その時のためにも、死や悲嘆についてもう少し勉強したいと思います。